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受難の10円

戦後、受難を味わった通貨は10円だろう。急激なインフレ抑制のため昭和21年2月、旧円の封鎖と、新円(100円、10円)が発行された。100円札は聖徳太子が四回目の登場となったが、新10円札は国会議事堂の正面図を取り入れた異色のデザインであった。

 

最初の案では薬師如来の随神である十二神将のうち伐折羅(ばさら)の激怒した面相であったが、GHQは社会不安をあおるとして許可しなかった。

 

しかも採用された議事堂正面図の図案はちょっと見ると「米」という字形に見えて、右側の菊紋と「拾圓」の銘記をクサリで囲んだような形は「国」の形にも見え、いかにも米国に敗れた国の紙幣らしい、と悪評さくさくだった。そうでなくとも、従来の日本の紙幣とは全く異なった意匠に大衆はアレルギー反応を示したのであった。

 

猛威を振るったインフレも昭和24年ごろになるとだいぶ弱まってきたが、お金の価値もダウンした。そこで小額通貨を紙幣で代用する戦時中の“悪弊”を改めて、半永久的な硬貨にすることが検討され、まず十円が候補に挙がった。

 

素材は白銅貨に匹敵する洋銀で、その組成を銅五五〇‐六〇〇、亜鉛二九〇‐二二〇、ニッケル一六〇‐一八〇、偽造防止のため有孔とした。ニッケルの使用量を極力節約したところに特徴があった。連合軍総司令部から10億枚製造の許可を得て25年3月から製造を始めた。直径20ミリ、量目2.75グラム、表の意匠にお茶の花が採用された。これは初めてのことである。

 

当局側では、10円紙幣を比較的短期間に回収するためにも相当量を製造しておいてから発行する計画であったが、製造開始3か月後におこった朝鮮動乱がこの計画をくつがえしてしまった。

 

ニッケル地金は国連軍の軍需資材として価格が急騰し、26年5月にはニッケルの使用制限規則が公布され、10円洋銀貨はついに発行できない状態に立ち至った。26年8月までの1年半に7億4647万4581枚製造されたが、日の目を見ることなく鋳潰されてしまった。10円が青銅貨(ギザ有)となって現れるのはその2カ月後であった。」(毎日新聞社編『お金の雑学事典』毎日新聞社、1979年、72‐73頁)。

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