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2017年9月

10円青銅貨の図案に平等院鳳凰堂が選ばれた理由

貨幣のデザインは、造幣局の職員が造る場合と一般の方から図案を募集する場合がある。いずれにしても複数のデザインの中から最終的に政府の閣議で決定される。

 

「なぜ平等院鳳凰堂の図案が選ばれたのかは当時の資料が残ってないためはっきりしたことは分かりません。

 

ただ、貨幣のデザインに関しては金属の性質を考慮し、「模様が鮮明に出るか」「簡単に偽造できないか」など、様々な面で検討される。

 

10円貨幣は第二次世界大戦後の日本の復興期に出された最高額面の貨幣だったために、偽造防止対策として精密な図案が選ばれたことも考えられる。

 

10円貨幣の裏面のデザインの木は「常盤木(ときわぎ)」である。常緑樹のことを指す。

 

 

 

 

昭和26年 PCGS MS65RB を紹介する。未使用であることが保証されます。素晴らしい光輝を放つものではありません。ハイグレード品であることは確かです。我が国における銅貨の状態評価は、銅色表示がRDでないと未使用品とは認められない場合が多く、RBでは準未品、BNだと極美品+程度に評価されることが多い。

 

手変わり分類 Aaに類似1タイプ

 

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昭和63年前期の追加考察

先日、昭和63年前期を発見したので表面の宇治平等院側の特徴を拡大した画像を載せてみました。これなら前期後期の判別が容易につくと思います。

 

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 屋根に切れ目有

 階段の縦線が分離(階段切れ目有)

 屋根の先端が鈍角(ほかの屋根の先端も鈍い)

 

この1枚しか見つけ出していないのでミント出しの可能性も否定できません。2枚目を見つけ流通貨にも存在することを確証したいです。

 

「収集」に掲載されていた昭和62年50円白銅貨が2枚目の発見により流通が確認できたと同じです。

 

なお、画像は無料の画像編集ソフトのスクリーンプレッソで作成しました。

 

「昭和63年 前期 Ce型 階段切れ目有」を流通過程より発見

 

今回は流通過程では確認できなかった「昭和63年 前期」階段切れ目有 を発見したことについて報告する。2017年9月6日に「昭和63年 前期」の流通貨を発見できた。

 

場所は水戸市のつくば銀行赤塚支店である。7月に表面に縁のないエラーコイン(鋳造時に造られたものではない)のようなもので重量のやや軽い4.3グラムの10円「平成11年」を発見した場所でもある。

 

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私が4‐5年前から探してきたがすべて「昭和63年 後期」であった。もっとも、自動販売機を使った場合は見逃してきたこともある。渋谷のコイン商で昭和63年前期を見つけたが、ミント崩しなのかロール出しなのか分からないという返答であったのでミントセットにしか組み込まれていないものだと勝手に決め込んでいた。

 

いずれにせよ、「昭和63年 前期」はミントセットから容易に入手することができるので貴重な手変わり品とは言えない。ミント出しかロール出しかの区別がつかないためである。今回の発見により、「昭和63年 前期」が確実に流通されていることが実証できた。

 

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「昭和61年 後期」、「昭和62年 前期」は流通過程から確認できたが数は少ない。残りは手変わりの報告がされていない「昭和60年」、存在の報告はあるが現品未確認のものである「昭和56年Bd型」を意識的に見つけても良いだろう。さらに、「平成6年」、「平成13年」なども詳しく精査してみる価値が高い。

 

昭和26年 Aaに類似1タイプ(型)

 ●手変わり名称 および 分類番号

 

Aaに類似1タイプ(型) めんどりor 雌型鳳凰 

 

郡司勇夫先生が『日本貨幣図鑑』東洋経済新報社や日本銀行調査局編『図録日本の貨幣9』東洋経済新報社で昭和26年銘の平等院鳳凰堂の屋根の両端にある鳳凰の尾翼の形が実際と異なっているのが発行後問題になったため後に修正されたと説明されています。そのため昭和26年銘の10円の図案は間違っています。

 

 

 

問題はその後に発行された昭和61年前期後期などの稀少手変わりの点でありこのことに関しては全く造幣局では説明されていないので真実は分からない。熱心な収集家の意見がコイン商や収集家に支持されるにとどまり、あくまで推論の域を脱しません。

 

 

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前期の「めんどり」は近代貨幣手変わり研究会会長の枝氏により付けられた呼び名で、「鳩型鳳凰」は神吉先生によって付けられた呼び名である。どちらの呼び方でも構わない。また、orは「または」と呼び代えて欲しい。

 

 

「10円青銅貨幣誕生60周年」

   独立行政法人造幣局HPによると、「平成23年10月19日(水曜日)、独立行政法人造幣局の新原理事長が平等院を訪問し、「造幣東京フェア2011プルーフ貨幣セット」及び「造幣東京フェア2011貨幣セット」を住職 神居文彰(かみい もんしょう)様に贈呈しました。

 

造幣局では、平成23年10月22日及び23日の両日、造幣局の事業内容や技術を紹介するため東京支局構内において開催する「造幣東京フェア」のテーマである「10円青銅貨幣誕生60周年」にちなみ、10円青銅貨幣に用いられている平等院鳳凰堂とそこに据えられている鳳凰を題材に、これらの貨幣セットを製造しました」と記載されている。

 

 

そして、平成23年12月10月22日(土曜日)及び23日(日曜日)に「東京造幣フェア2011」の貨幣セットとプルーフセットが独立行政法人造幣局東京支局構内 特設販売所で販売された。テーマは「10円青銅貨幣誕生60周年」である。

 

第一に、プルーフセットは造幣局では現在と図案に変更が全くないと言われている10円青銅貨幣のデザインに用いられている平等院鳳凰堂と10円青銅貨幣のデザインの一部とを組み合わせたものを、裏面に平等院鳳凰堂に据えられている鳳凰と10円青銅貨幣の製造枚数を配したものとなっている。


また、銀メダルの表面は、10円青銅貨幣のデザインに用いられている平等院鳳凰堂及び常盤木と「60th」の文字を虹色発色加工技術(※1)を用いて表現し、裏面は、宝相華唐草模様を背景に、平等院鳳凰堂に据えられている鳳凰を梨地加工技術(※2)を用いて表現している。

(※1)微細な間隔の溝に当たり反射した光が干渉し、虹色に輝いて見えるように仕上げる加工技術。

(※2)表面に細かな凹凸を刻むことにより光を乱反射させ、梨の表面のような質感に仕上げる加工技術。

 

第二に、貨幣セットは、平成23年銘の未使用の5百円から1円までの6種類の通常貨幣と純銀製年銘板1枚をプラスチックケースに組み込み、カバーケースに収納したものである。
カバーケースは、表面に造幣東京フェア2011のテーマである「10円青銅貨幣誕生60周年」にちなみ、10円青銅貨幣のデザインに用いられている平等院鳳凰堂と10円青銅貨幣のデザインの一部とを組み合わせたものを、裏面に造幣東京フェア2011のシンボルマークとカバーケースのデザイン説明を配したものとなっています。
また、年銘板のデザインは、表面に造幣東京フェア2011のシンボルマークを、裏面に製造年を表す’11と干支の卯 (うさぎ)のイラストを配しています」と記載されています。

 

 

造幣局ではこのように1円、10円、50円、100円、500円等にも記念となるミントセットやプルーフセットを発行している。その中でも「10円青銅貨幣誕生60周年」などごく一部だけが買い取り価格が造幣局販売価格より高値が付いている貴重な貨幣である。他はミントセットやプルーフセットが各コイン商で特売品としてセールを開催して販売価格を大きく下回り取引されている。筆者はまだいずれも入手できていない。

 

 

経済再建安定計画(ドッジ・ライン)以降の財政

昭和24年度の財政はドッジ公使の指示による総合収支の均衡で計画され、

この計画の中で戦後の国民生活、経済復興の強力な支持となっていたアメリカの援助物資の売却資金を経済再建に効果的に振り向けるための対日援助見返資金が設けられた。またインフレ経済の終始を前提として、1ドル=360円の単位為替レートが設定され、世界経済体制への復帰の方向が定められた。予算規模は7,047億円となり、国民負担軽減の期待は見送られた。この大規模予算にはドッジ公使が指摘した竹馬の2本足の一つである価格調整費2,022億円が計上され、終戦処理費1,252億円をはるかにしのぐ大きな費目であった。

 

 総合収支均衡の計画は多くの政府事業で収入確保と経費節約を求め、料金等の引上げと人員整理を含む活動圧縮が行われた。この政府部門の事業整理と同じく、それまでインフレ経済の中で業態を拡大してきた民間企業にも整理緊縮の圧力が加わり、23年度までの経済運営は180度転換して、経済安定を第1とする方向に替わった。戦後の復興過程で企業の設備資金を供給してきた復興金融金庫の機能は止められた。

 

 減税計画が取りやめになったので24年度の国民負担は戦時の水準をも超える率となったが、この負担軽減と税制の全面的検討のためにシャウプ使節団が派遣されてきた。実施調査も加えた精力的な検討研究による報告書が24年9月に提出され、その勧告は一部を除いて25年から実施された。直接税中心の租税体系をとり、所得税のほかに富裕税を設け、生涯獲得資産を対象とする高租税の相続税に改め、法人犠牲説に立つ定率一本の法人税を定めた。この理論的扱いとともに、現実対処を配慮して、所得税の最高税率を55%に止め、申告納税制度に細かな措置を加えた。また地方財政の確立に力を入れ、それぞれの団体に即して独立税を設け、地方経費と地方収入との調整方法として、地方財政平衡交付金を採用した。地方税においても資産課税が重視された。勧告によって国民負担は多少軽減したが、大衆負担は依然として重いままに残された。

 

 25年6月に起こった朝鮮動乱は安定計画下にあった日本経済に大きな活動刺激を加えた。経済は多少の混乱を受け、変動の波も大きかったが、安定成長の経済は拡大成長に転じ、国民の所得も増大して財政規模の急増大が避けられたことも幸いして、その後毎年負担軽減に結び付く減税が実施された。この間、動乱を機に警察予備隊の設置が指示され、講和発行後の国土防衛の任務を背負って、その存在は定着し、財政支出の中でも防衛費として相当の比率を占めるようになった。27年4月の講和条約発効に即して、占領政策下で抑制されていた諸施策が加わって財政規模は多少増大したが、国民負担の実質軽減を阻むことはできなかった。しかし、講和発行によって米国の経済援助は止まり、その条件で自立経済を進めなければならなかったので、国際収支の均衡確保を第1とすることから、1兆円予算として特徴づけられる緊縮財政が29年度から始められ、大規模減税も後退した。

 

(肥後和夫編「財政学要論 第4版」有斐閣双書、1993年、305307頁)

 

経済復興期の財政

戦争経済は終戦時に崩壊していた。国内資源を徹底的に動員して戦争経済に注ぎ込んだ結果の敗戦であった。米軍の爆撃は経済力を破壊し、主要な都市を焼き尽くした。戦争経済の崩壊とともに国民経済も破壊され、戦後の経済運営のための余力も極度に減殺された。そして戦時中に蓄積された預貯金によって潜在的購買力だけが大きく残った。

 

 終戦によって軍事支出がなくなり、国民の財政負担は軽減したが、国民の負担力の基礎が減殺されていたので、戦後の財政支出を賄う財政収入は不足し、財政困難は続いた。これに食糧不足の不安が加わって、潜在購買力が顕在化し始め、悪性インフレへの恐れが強まった。政府は一方で戦時補償との関係で財産税賦課を計画していたので、食糧対策、インフレ対策、財産税賦課のために21年2月に金融緊急措置を実施して、預金を封鎖し、通貨を新様式に切り替え、いわゆる新円経済を始めた。

 

 戦時政治体制からの転換過程で、21年度の予算編成が遅れ、この間に租税徴収の不振、占領軍駐留費の放出、国民生活資金の放出等があって、金融措置によって収縮した通貨量は、半年後には再度措置前の額に戻った。ようやく決定した予算も形式的に収支は均衡していたものの、一般財源に切り替えられた財産税収入の先取りなどがあって実質的には不均衡の内容であった。また政府の予定した戦時補償の実施は占領軍の方針で打ち切られて、戦後の経済再建の資金的手段を失った。これを自由な国民貯蓄に期待するには国民の所得はあまりにも低水準であった。

 

 22年度財政からは日本国憲法、財政法の規定によって予算は収支均衡で組まれたが、その実施に当たって租税収入の遅れがあり、特別会計の短期資金調達に抜け道があり、また戦時補償打ち切りの事後対策として設立された復興金融金庫が、その資金を日本銀行の信用創出に求めたこと、そして民間では企業が赤字経営を続ける等が重なって、通貨の膨張は依然として激しく続いた。財政支出は増大したが、それは占領軍駐留費、価格調整費、公務員給与等によるものであり、これを賄う租税は所得税と酒税、それに専売公社で、法人税による企業負担に期することはできなかった。インフレによる名目所得の増大で所得税負担は強化され、また家庭配給のたばことは別の自由販売による高級たばこで購買力を吸収しつつ財政収入の増加が図られた。所得税の徴収はまさに徴税強行と称してよいほどであったが、財政収支の確保は困難で、23年には新しい型の取引高税も採用された。

 

 

 

肥後和夫編「財政学要論 第4版」有斐閣双書、1993年、304305頁。

 

 

 

 

 

 

 

受難の10円

戦後、受難を味わった通貨は10円だろう。急激なインフレ抑制のため昭和21年2月、旧円の封鎖と、新円(100円、10円)が発行された。100円札は聖徳太子が四回目の登場となったが、新10円札は国会議事堂の正面図を取り入れた異色のデザインであった。

 

最初の案では薬師如来の随神である十二神将のうち伐折羅(ばさら)の激怒した面相であったが、GHQは社会不安をあおるとして許可しなかった。

 

しかも採用された議事堂正面図の図案はちょっと見ると「米」という字形に見えて、右側の菊紋と「拾圓」の銘記をクサリで囲んだような形は「国」の形にも見え、いかにも米国に敗れた国の紙幣らしい、と悪評さくさくだった。そうでなくとも、従来の日本の紙幣とは全く異なった意匠に大衆はアレルギー反応を示したのであった。

 

猛威を振るったインフレも昭和24年ごろになるとだいぶ弱まってきたが、お金の価値もダウンした。そこで小額通貨を紙幣で代用する戦時中の“悪弊”を改めて、半永久的な硬貨にすることが検討され、まず十円が候補に挙がった。

 

素材は白銅貨に匹敵する洋銀で、その組成を銅五五〇‐六〇〇、亜鉛二九〇‐二二〇、ニッケル一六〇‐一八〇、偽造防止のため有孔とした。ニッケルの使用量を極力節約したところに特徴があった。連合軍総司令部から10億枚製造の許可を得て25年3月から製造を始めた。直径20ミリ、量目2.75グラム、表の意匠にお茶の花が採用された。これは初めてのことである。

 

当局側では、10円紙幣を比較的短期間に回収するためにも相当量を製造しておいてから発行する計画であったが、製造開始3か月後におこった朝鮮動乱がこの計画をくつがえしてしまった。

 

ニッケル地金は国連軍の軍需資材として価格が急騰し、26年5月にはニッケルの使用制限規則が公布され、10円洋銀貨はついに発行できない状態に立ち至った。26年8月までの1年半に7億4647万4581枚製造されたが、日の目を見ることなく鋳潰されてしまった。10円が青銅貨(ギザ有)となって現れるのはその2カ月後であった。」(毎日新聞社編『お金の雑学事典』毎日新聞社、1979年、72‐73頁)。

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